鬼和尚語録

5chの鬼和尚 ◆GBl7rog7bMさんのお言葉を纏めさせて頂きました。
この語録の著作権は、鬼和尚 ◆GBl7rog7bMに在ります。


数息観のやり方

先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。

初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。

更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。

例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。


雑念の処理

座禅をしていると、集中しようとしても思考や連想が頭の中を流れ、それに囚われてしまうことがある。
そのような思考や連想を雑念と呼ぶ。

雑念を無理に止めようとすると、その思いが又雑念となり、再び雑念に流されてしまう。
雑念を止めるには、一つ一つの思考を意識せず、流れるままにしておくことじゃ。
例えば心を川に、雑念をその川に浮かぶゴミのようなものとして喩えるなら、川の流れに浮かぶゴミを見ず、川全体を見るようにするのじゃ。

流れていくゴミをそのままに、数息観であれば呼吸に集中し直す。
そのようにすれば、雑念は自然に消えていく。


瞑想を深めるこつ。

さて、今日は瞑想をさらに深くするコツのようなものじゃ。

みんなかなり瞑想が上手くなったことじゃろう。
更に深く集中するには、心の中に在るブレーキを緩める事がコツなのじゃ。
人は普段の生活では、常識や良識の範囲内で生活するために、心の中にブレーキをもっており、常に自分の心や体を制御しておる。
心のブレーキは瞑想中でも働き、ちょつとでも常識の範囲を越えようとすると、たちまち心を引き戻してしまうのじゃ。

例えば瞑想をしていて、とても深い集中に入ってしまうと、今までの経験には無い領域に恐れを抱き、心のブレーキが働いて、瞑想から覚めてしまう。
そして、それからはもうそのように深い瞑想には入れなくなってしまう。というような経験をした者も居るじゃろう。
心のブレーキは常識を外れた深い境地に入ろうとすると、自我を構築する反射作用を保つために、それ以上の瞑想の深化を止めてしまうのじゃ。

そのような心のブレーキを外すのは、なかなか大変な事じゃ。心のブレーキは自我を保つ恐怖からの逃避にも係っている故に、自我の危機を感じると本能的に働くからなのじゃ。
心のブレーキは一度に外そうとしては恐怖を呼び起こす故に、少しずつ外していかなければならんのじゃ。

それには肩の力を抜いて、リラックスする事が大事じゃ。
リラックスと恐怖は相容れないものであるから、リラックスすれば、恐怖は消えていく。
肩や首筋、背中などにかかっている力を抜き、背中を真っ直ぐにして坐っていられるぎりぎりのところまで力を抜いていくのじゃ。

そして、心の中では内側から出て来る、さまざまな衝動に身をゆだね、心の制御を一時休んで、預けてしまうのじゃ。
それを恐れる心があるなら、一時的に心のブレーキを外すだけじゃと、自分に納得させるのじゃ。
心の奥から何が出て来ようと、それに任せ切り、何もしないで己をあけわたしてしまう。

風にさすらう木の葉のように、空を行く雲のように、流れる水のように、何かをするのではなく、待ったりするのでもなく、しないことをするのじゃ。
心から来るものは来させ、消えていくものを消えるままにする。
ほんのわずかな心の動きさえ、放棄してしまうのじゃ。

そうすれば集中の中に集中を忘れてしまう、真の瞑想が自然に起こって来る。
もはや息を数えることも、呼吸に集中することも、瞑想の妨げであると感じるならば、自然に止めて良いのじゃ。

そのような甚深微妙なる瞑想の中では、観照は自然に起きてくるじゃろう。
みんなその時まで頑張るのじゃ。


思考と観察

思考と観察は違うものじゃ。
思考は記憶の範囲内でしか働かない、過去のもの。
観察は過去の記憶を離れ、今、ここに気付かせるものじゃ。

沢山の事を考えている者は、気付いているかも知れないが、思考と言うものは、いつでも堂々巡りをしているものじゃ。
同じ考えを何時までも繰り返し、同じ壁に突き当たって囚われてしまう。
思考に囚われている限りは、新しい考えや知見は訪れぬものじゃ。

観察によってこそ、人は思考の網を打ち破り、新しい知見を手に入れる事が出来る。今、ここにあるものを観察出来れば、囚われていた事が判る。
目の前に在っても気付かなかった事が、観察によって明らかになる時、人は思考の枠を超えた、新しい知的段階に進む。
現代の科学が発展したのも、思考による理論より、観察によって得られた知見を重視した為なのじゃ。

自らを、そして全てを観察する事が、真の現実に気付く道なのじゃ。
例えば子供の頃、世界は神秘と輝きに満ちた、わくわくする所だったと覚えている者も多いじゃろう。
小さなどんぐりや石ころなども宝物の様に見えた。
大人になると、あれほど輝いていた世界が、いつのまにか光も、色も失い、灰色の世界になってしまったように感じる。

しかし、それは世界が変化した訳ではない。
世界が灰色に見えるのは、思考の網に囚われてしまった者の、イメージに過ぎない。
どこにも行けない、何度も繰り返される思考の網が、人をしてこの世界が行き詰まり、何もかも同じ事の繰り返しのような、灰色の世界に見させているのじゃ。

今より繰り返される思考が少なかった子供の頃には、観察する事が出来ていた故に、観察によって正しい世界の姿が見えていた。
大人になって、思考の網に囚われたから、世界は暗く灰色に見えるのじゃ。

観察する者にとっては、世界は今でも神秘と輝きに満ちた、わくわくするような所なのじゃ。
毎日、同じように立っている木も、日毎に違う。
毎日が新しく、未知の輝きに満ちている。
思考を離れた観察によってのみ、それを知る事が出来る。

みんなに教えているように、わしも自分の手を観察したりする。
右手と左手の中指を比べてみると、左手の中指が五ミリほど高いのに気付いたりする。
みんなはどうかな。

何十年も使っている自分の体でさえ、実際にはあまり観察しておらず、知らない事が多いのでは無かろうか。
自分の事は自分が一番良く知っていると、人は思っているが、実はそれは記憶や思考によって作られたイメージでしかない。
イメージを自分であると思い、見慣れた、良く知っている自分というものを、記憶の中で作り上げている。
そしてそのイメージを、自分の肉体などの集まりに、投射しているだけなのじゃ。
それに、気付く事が出来るのは、観察によるしかない。

体は本当に自分であろうか。
感覚は自分のものだろうか。
思考が自分なのか。
認識を自分として同一化しているのか。
自分とは何なのか。
自分で無いものとは何であるか。

観察すればそれらの答えが、現れてくるじゃろう。
思考によってではなく、観察によって人は悟りを得て、目覚めた人と呼ばれるようになるのじゃ。


観察の行

数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。

例えば花なら花という言葉を使わず「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。

出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。

そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。
そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。

そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。


姿勢が大事じゃ。

 腰を据えて背筋を伸ばし、上中下の三つの丹田が垂直になっていたら、人は自然に無念無想になれるものじゃ。
道元禅師も禅とは只管打座、ただ真っ直ぐに座ることが肝心と言うておる。

 足の組み方は、日本人には完全な結跏趺坐は、向かないものが多い。
片足を片腿に乗せる半跏座や、あぐらなどでも背骨が真っ直ぐになれば良いのじゃ。

 そして、尻を据えて腰は伸ばす。胸を開き、肩の力を抜く。首で頭のバランスを取るようにするのじゃ。
全体が整ったら、頭のてっぺんから糸が出て吊られているようにイメージして伸び上がり、力を抜いてもとの姿勢に戻るのじゃ。

 下半身の中心の下丹田、上半身の中心のみぞおちにある中丹田、頭の中心にある上丹田が完全に真っ直ぐになっておれば、快が生じ自然に三昧の境地に入るじゃろう。
自分で座りながら体を少しずつ動かしてみて、頭の中心に快が生じたら、それがおぬしの正しい姿勢なのじゃ。
そのコツを掴めれば、正しい姿勢が出来て、修行は速やかに進むじゃろう。

姿勢が大事じゃ2

快とは丹田が真っ直ぐに揃った時に、上丹田より生じるこころよい感覚じゃ。
それは例えば、良い景色などを見た時の感激にも似ておる。
背骨を伸ばし、上下の丹田が完全に重なれば、体の中心を気が自然に上昇し、上丹田に達する。
すると背中に電気が走ったように感じ、全身に心地よさが広がる。
鳥肌が立ち、髪の毛が逆立つような者もおる。

 この感覚と快を得るための上中下の丹田の統一は、言葉で伝えるのは難しい。
身体の微妙な感覚であり、それを真に身に付けるには、自ら研究する他は無い物じゃ。
初心の者は取り合えず背中を真っ直ぐにして、頭の中心と下丹田にゴルフボールくらいのボールがあり、それを上から垂直に合わせるようにイメージするのじゃ。
ボールが重なれば自然に快が生じる故に、そこが正しい姿勢の位置であると判るであろう。


観察の行の本行じゃ。

花などの外部の物を観察して、観察が出来るようになったら、自分自身を観察するのじゃ。
観察は肉体から始り、心の中の微妙な領域に順々に深く入っていく。
人の自我は多様であり、どこに自我を投影しているかは、本人も観照が起こるまでは判らないからじゃ。

まず手の平を観察してみるのじゃ。
花を観察した時と同じように、皺があるとか、節があるとか、詳細に観察していくのじゃ。
何度もしつこく繰り返し観察していくと、手に奇妙な感覚が生じるであろう。
自分の手が自分のものではないような感覚。

それは厭離という感覚じゃ。
厭離とは観察によって物の本性が表れ、阿頼耶識によって分別された偽りの名前と形態が剥がれ落ちる事じゃ。

普通の人間は自分の手を、阿頼耶識で「自分の手だ」と認識している。
しつこく観察していると、阿頼耶識による認識は止まり、自分のではない、ただの道具としての手が表れるのじゃ。

この観察による厭離の感覚を、肉体の他の部分を観察する事で広げていくのじゃ。
肉体に自我を投射している者は、これだけでも悟りを得られるじゃろう。

未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。

感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、今、感じている感覚を観察するのじゃ。

その鐘の音によって生じる感情も「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。

物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。

このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。
それは又、別に書くじゃろう。


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